2000

世紀末銀輪 編集特別企画『先人曰く』
1986〜の銀輪に掲載された中から、編集が独断と偏見で選び出した随想撰集
 

 


先人、曰く -銀輪ベスト随想-

端書きと最後の言葉を、ここに掲載する。選ばれた随想は、すべてWWWに再録されている。

いくら30余年の歴史をこのクラブが持っているといっても、自分がこの部で出会える人間の数はたかが知れている。5,6年前にできたクラブの場合とそう大差ない数だ。しかし、銀輪の存在はこの部が長い歴史を持っていることの強みの一つである。会ったこともないような先輩たちの冒険や信念や苦悩がそこにはある。コースガイドや資料としてだけでなく、クラブの運営、各自のサイクリング観の形成に関しても銀輪は先人達の遺産であるといえる。   ここでは、‘86から‘99までの銀輪の中からいくつか文章を紹介する。随想を中心とするという方針のため、コース情報や実用的な記事については紹介のみにとどめた。なお、この企画は「これだけで過去の銀輪の要点が分かる」ような企画では決してない。ここに挙げたのはあくまで氷山の一角に過ぎず、紹介の基準も相当偏ったものである。ただ、これがあなたが過去の銀輪を紐解くきっかけとなれば幸いである。

 

最後に  いったい銀輪のおもしろさはどこにあるのか?それにはあらゆる答えが存在することと思う。それに対する自分なりの答えは、「作者の思いの強さ」である。この場合の「思い」っていうのは、ちゃり部の活動を通して考えたことや、感じたこととかのことである。銀輪は普段話さないような自分の思いを、ある程度整理した形でみんなに伝えることができるまたとない機会だと思う。

そんな思いの強い文章からは、その人が感じられる。BEST3やプロフィールに載っているような、ある意味レッテルに近い薄っぺらなその人の像ではなく、もっと血の通ったその人自身を感じることができるのだ。  今回はベスト随想ということで随想を中心に紹介したが、なにも思いが強くてその人を感じられる文章は随想だけに限らない。ツアー報告にしても「そこは自分から見てどうだったのか?」「そこでどう思ったのか?」がしっかりと書かれているものは読んでいておもしろい。

もちろん、思いを伝える唯一の場が銀輪だというわけではない。行動をもって示し、背中で語ることも大事だろう。しかし、言葉にしないとなかなか伝わらないことというのはあると思う。受け取る側に背中から何かを読み取ろうとする心構えが無ければ、背中はただの背中でしかない。もっとはっきりと形にしないと、伝わらないことはあるのだと思う。  銀輪を、そのとき限りの雑誌のようなものにはしたくない。時が経っても色あせず、共有できるものがあるはずだ。だからこそ過去の銀輪を読み、まだ見ぬ後輩達にも向けて語りかけるのだ。

編集代表  植村 知之


日本縦断記(植村 知之氏)

第一回銀輪賞受賞作品となる氏の縦断記から、はじめの部分と終わりの部分を掲載させていただく。

氏のサイトに、全文が掲載されているので、そちらも御覧いただき、もちろん銀輪もチェックいただきたい。

 

はじめに

この夏、日本縦断をした。 日本縦断は国道ばっかりで、大した見所もない。観光がしたいならやめたほうがいい。 日本縦断はしんどい。楽なのがいいならやめた方がいい。 日本縦断は1人でやるしかなかったりする。みんなでいたいのならやめたほうがいい。 そう思ってた。そしてそれは本当だった。単調でしんどくてひとりだった。 なんでそれを知っててやったのか? そういうのがあるとするなら、それがこの報告のテーマだ。

やるのか?どうする?

日本縦断をやることを決心したのは、フレッシュツアーの最終日。縦断の−1日目にあたる。最後の晩を迎える公園を見つけて、ここに泊るかと思った後「ああ、おもしろかった。明日から何しようか?」と考えたら自然に答えが出てきた。みんなと過ごしたことがひとりでがんばることの後押しをしてくれた。不思議なもんである。

ー中略ー

縦断を終えて  -翌日の思い-

ゴールした翌朝、日記に書いた文章がある。自分なりの一晩経ってのまとめである。20日間も一人でいたせいか地に足のついていないような文章なのだが、そのまま載せてみる。

縦断が終わった今、僕は次の夢を見つけて現実に変えていかないといけない。でもそれはそう難しいことじゃないはずだ。夢に合理性や理由なんていらないみたいだから。本当の本当に価値あることなんてないんだとしたら、嘘でもでっちあげでもやりたいこと見つけてがんばるのがいいんじゃないだろうか。

基本は、「何かやりたいと思う」→「それをやる」→「楽しい!」だ。1ステップ目で悩み続けて1歩も動けないのはごめんだ。「パーフェクト・ワールド」に出てきた‘やりたいことリスト’を作ってみたとすれば、僕は一本横線で消せるわけだ。次は何だ?いくらでも書いてやる。いくらでも消してやる。

僕はもうすぐ20歳になる。僕はこの旅を自分の元服にするつもりだった。分かっていたことかもしれないが、自分の中に劇的な変化は見られない。旅から帰ってきたらスーパーマンというわけにはいかない。しかし、望むかどうかは別として僕は大人になる。

僕が昔考えていたようなパーフェクトな大人にはなれない。不安や短所を抱えたまんま大人になるんだろう。それでいい。ただ覚悟はできた。自分の「ちょっといいとこ」見れたおかげでいくらか自信もついた。この自信が勇気につながって欲しい。僕でもこんなことができた。こんな問題山積の僕でも。僕もあなたも大して変わりはしない。特別に強い奴なんていやしないのか。

なんで走ったのか。終わってから考えると、走りたかったからだ、としか言えない。理由がついてこない。自転車が好きだから、ということだ。バスはつまらん。  おもしろかった。遠くに行くのが。スピードが出るのが。坂登るのが。

ただ、やりたかった。そんだけ。

走り終えて、時間が経って

さっきので終わっても良かったけど、もう少し。ここまで読んでくれた人も、本当は縦断中の様子なんて興味ないんだろ?俺なら、知りたいと思うのは「縦断なんてやろうと思う人間の考えること」だから。そういうわけで、縦断に関連して考えたことをいくらか。

最終日のところで書いた縦断の神様について。日本縦断をした人につくような権威の存在って分かるだろうか?特にちゃりで走らない人に効くのである。「北海道に20日いた」より「日本縦断した」のほうがなんかすごいかも、と思わせる何かだ。何も知らない人に効くだけなら別にそれで構わないが、自分がそれにやられてしまうのはかっこわるいな、と俺は思う。俺はすげえぜ!俺の胸には勲章が光ってるんだぜ!みたいなのはカッコ悪い。それはもう過去の話なんだから。「なんかかっこいいかも…」っていうのは動機にはあるが、終わった後もそんなこと考えてるのはどんなものか。俺にとって縦断した、という履歴はお気に入りのバッジみたいなもんだ。手に入れてしばらくは「わーい!」っていってつけてるけど、そのうち色あせて見えてはずす。でも買ったことを後悔するわけではない。そんな存在。

走ってる間は、いろんなこと考えてた。自分のこと、みんなのこと、クラブのこと…。考え事をするのは結構好きだから。走りながら考え事をするのは、眠る前に電気を消してする考え事とはまた違う。なんだか、走ってる限りは悪い考えにおそわれない。前向きになれる。どうやら悪い考えは自転車のスピードに追いつけないみたいだ。

縦断をすることの目的や意味なんかもずっと考えてた。結局結論が出なかったから、終わった直後には「ただ、走りたかったから」なんて書いてる。それは本心なんだろうか。本当にそれだけなら、走りながら他の意味を探すことなんかなかったんじゃないか?  …そんな理由で走りたかった、というのも本心にはあるかもしれない。走りたいから走り、好きだから自転車に乗る。純粋にそうありたかった。もちろん俺も好きだから自転車に乗ってるんだけど、好きの度合いが問題になる。本当にこれが好きでたまらない、楽しくてしかたない、という感じで自転車に乗ってる奴はかっこいい。論理よりも情熱によって動き、湧き上がる疑問にはペダルを踏むことで答える、ヒーロー的自転車乗り。そういうのにあこがれた。俺もあんなふうになれるのかな?俺はどのぐらい自転車が好きなんだろう?この「好き」は本当に本物なんだろうか? そう思った。それで、試してみたくなった。「本当に好きなら、どんな厳しいことだって耐えられるよな、日本縦断ぐらいできるはずだよな…。」それで、やってみた。

これはあくまでそんな部分もあった、というだけである。主な理由は、ただ走りたかったからだ。ただ、無視できる部分ではないと思って書いている。

そして、縦断ができるかできないか、といえばできた。余裕だ。ただ、情熱だけで走りとおすには辛くなり、なにかよりどころとなる意味や目的をずっと求めていた。論理に頼りたくなったんだろう。本当のヒーローなら、こんなことないんだろうな…。

ここでいうヒーローっていうのは、あくまで性向の問題。行為に疑問など浮かんでこない、単純で純粋な理由で動ける奴。バカにしてるわけじゃない。そういう奴はかっこいい。「なる」ものでなく「…である」もの。強いこともヒーローの条件なんだけど、俺みたいな凡人ががんばってもたかがしれてる、とかそんな意味は一切含んでいない。

今思うと、あの時探してたような意味なんてないんだろう。自分を合理化してくれるような、みんなを納得させられるような意味なんて。なんせ衝動だけで飛び出したんだから。

ただ、妙な意味とか目的を無理やり見つけなくて良かった。結局、論理に頼らなくても情熱だけで走りとおせたということだから。

あるいは、ヒーローなんて幻想なのかもしれない。こんな自分でも縦断はできた。かつては想像もできなかったことを自分がやってのけた。自分とは違う、強い人達の場所だと思っていた所に自分がいる。そう思うと、自分が思い描いていた強い人達というものの存在が怪しくなってくる。 …みんな大して変わらないのかな?強がりじゃない本物の強さなんてないのかな? そう思った。

そう、縦断自体に意味はない。終わってしまえばなんにも残らない。泡みたいな記憶と汚い字の日記以外は。達成感なんて一時的なものだし、自信なんてものもいつのまにか消えていく。神様はメダルなんかくれない。Finisherにもれなく与えられるものなんてない。ただ、そんな偉業としての価値を求めなければその行為から得られるものはいくらでもある。その行為によって考えたこと、感じたこと。価値なんてあるのか分かりやしないが、それを抱えてこの先生きていくもの。

縦断が何かのゴールに見えるなら、走るのをやめたい奴以外はやらない方がいいかもしれない。そんな究極的な体験を認めちゃったら次に進む理由が無くなっちゃうだろ?  その先の存在が分かるなら、行ってくればいい。「縦断、カッコイイ!」とか思ったらその衝動に身を任せればいい。応援する。帰ってきたらいっしょに話そう。

あと、縦断をやったら一夏まるごとつぶれるっていうのはウソだ。俺は合宿→フレッシュツアー→縦断→二次合宿といけた。それでまだ日程に余裕があったから、結果的にはツアーの後にラリーに行っててもできたことになる。

やってみたい、と思ったらやったほうがいい。過去の銀輪の栫井さんの文章からの引用で終わる。俺もこの言葉で火をつけられた。

"後悔二つ有るならば、やらなかったことを後悔するより、やってから後悔しろ"