私の履歴書

氏名  阪大サイクリング部

生年月日 41年6月1日生
場所 豊中市待兼山
保護者 増田祥三先生

 

私は昨年6月、新たな希望と大学生活への憧れで胸を一杯ふくらませて入学してきた きた四人の若者、即ち洪、広瀬、本郷、佐野氏のよって結成された。いまだ一歳と2ヶ月の未熟児である。

誕生してから今日までのアルバム日記を見るとき、いろいろなことがあったなと、一人感慨にふけるのである。ここで少し振り返ってみよう。

結成当時の私の活動は、人数の点でも四、五人どまりのこじんまりとした一家で あった。が、しかし今以上の責任感ないし連帯感によって支えられていて、心丈夫であった。四人の話題はいつも私のことであり、そんな彼らを見て、頼もしくもあり、一日も早く私を一人前にしてくれることを願ったものであった。

昭和四十一年七月に入って、もう直ぐ夏休みに突入しようとする時、すでに私の一家は合宿の予定が組まれており、あと幾日と、四人の出発を待ったものである。

一次合宿は琵琶湖一周であった。一日目、豊中から西国街道を通って京都に向かう。そして、円山公園で昼飯をとり、その食欲にあきれて、じっと見ていたのを憶えている。 琵琶湖岸に出るまでには、逢坂山を越えなければならない、皆良くがんばった。最高点で自転車から降り、そこまで息を切らしながら登ってきた坂をふりかえり、汗をふきふきよくやったという満足感にひたっている彼らの誇らしげな顔を見て、つくづくわたしは生まれてきてよかったと身をもって思い知らされたものであった。西岸沿いに北上する。琵琶湖大橋を遠くに望む浮御堂。その名の通り葦に浮かんだ四角い古堂。それと対照的な赤と銀に塗られ、美しい曲線で琵琶湖をまたぐ近代的な橋。これが、また彼らに苦しい思いをさせるのであった。横から見ると\rensuji*{10}度くらいの坂も、いざ登ると大変。入り口から真っ直ぐ上に橋が立っているように見えるのである。それをてっぺんまでペダルを踏んで登ったんだから、彼らの精神力は立派なもんだと感心した。そこから眼下の湖面にツバを吐いて、その散乱する水滴の美しさに魅いる彼ら。その無作法を叱ってやりたかったが、彼らの精神力の立派さに免じてゆるしてやった。

初夜、マイアミ水泳場の傍らの松林の中でテントを張った。献立はカレーと漬物。疲れと喜びが交錯して、なんともいえない表情で飯を食っていた。泳ぐにはまだ水は冷たかった。

こうして三泊四日の合宿も無事終わった。そして山陰行きを持ったのである。9日間のThe longest tourなので私は少し不安であった。

不運にも初日にして事故発生、場所は池田から亀岡に抜ける摂丹街道の急な下り坂。私はこれでこの合宿は中止になるのではないかと思った。しかし彼らは初日のこの事故にもめげず山陰へ向けて出発したのである。

山腹で又のぞきををした天橋立・傘松公園、我々の見たあの石柱、崩れて今はないという玄武洞、こころないキャンパーによってタイヤが切られるという事件のあった竹野、香住、温泉中学の親切な宿直の先生に感激した湯村温泉、パンツのままで泳いだ鳥取砂丘海岸、朝五時に起きて国宝三徳山投入堂を見に登った三朝温泉、高原に放牧された牛を眺めてビールを飲んだ蒜山、ダム下の露天風呂に入って湯原、サンショウ魚がいると知らされてぞっとした川。これら全てが彼らの良い思い出であり、また私の思い出である。

再び石橋キャンパスに桜を見る季節となった。彼らは新入生対策を考え、つくづく部室のないことを悔いるのであった。思案の末、学生会館小集会室を借りて新入生を受け入れることとなった。当日の彼らの顔、不安と期待が入り乱れていった。そして定刻過ぎてゾクゾク集まってくる新入生を目の当たりにして、やっと彼らの顔に安堵の色が伺えた。新入生にぎこちなくなく私を紹介する彼ら、新入生の中には頼りなく思った人もあるだろう。でもどうやら5月には私の一家も\rensuji{20}数名におちつき、やっと私も腰を落ち着けることが出来た。二年生の彼らはこういう大人数になったことに戸惑うと同時に、内部固めに一生懸命であった。それも六月末の部室の入手により一応目的は達せられたようだ。ここに私は確固たる後援者を得て、限りなき発展と充実を企画した青年期に入ったのである。

夏期合宿を前にして、私は合宿の成功を祈るとともに、部員同士の連帯感に支えられて、私を一日も早く一人前にしてもらいたいのである。

早く大人になりたい!!

昭和四十二年七月  洪 盛堂記