1987

江田氏の10日間日本縦断の記録もこの号に掲載。
 
峠を読む(升谷氏)
自転車旅行で得られるものを十分に受け止めるためには、ある程度の知識と心がけが必要であり、その知識を得るための一つの方法は本を読むことだ、ということで主に峠についての本の紹介。‘89には「続・峠を読む」も掲載されている。

P208 峠を読む (升谷 保博氏)

 

サイクリング(ツーリング)はスポーツとして勿論楽しいが、その上いろいろな事情を見聞きするのにこれほど優れた旅行手段はないだろう。

ー中略ー

もしこの地球上に人間が生まれなければ、地形的な特徴点である「鞍部」は存在しても「峠」は存在しえない。峠は人間の営みーつまり多くの人がそこを行き来することーがあって、はじめて生まれるのだ。だから峠には長い人間の歴史が眠っている。

峠越えの楽しみは、高みをきわめること、自然に触れること(これらは、山登りと共通)、そしてその峠の歴史を味わいに行くことではないかと思う。中には、過去の面影を全くとどめていない峠路もあるが、それはそれでその峠の歴史の一頁なのだ。

さて、では何故「サイクリング」と「峠」なのか?遠い昔から、ほんの何十年か前まで続いてきた「歩く」という旅行形態を再現するのにもっとも適した手段がサイクリングなのである。歩くというのは、「線の旅」だ。ところが現代の車や鉄道の旅は、「点の旅」だ。また同じ歩くといっても山登りや、ワンダーフォーゲル(本来は「渡り鳥」の意)は、限られたフィールドで行われる「部分の旅」になっている。その点サイクリングは、「線の旅」だ。街から田舎へ峠を越え、また別の街へ、そういう旅ができる。 峠は歩く歴史の中で生まれた。車や鉄道は遠回りでも平地を選ぶ。

峠を本当に知るには、その頂だけを訪ねてもだめで、線の旅をして昔人の気持ちに同化しなければならない。それができるほとんど唯一の方法がサイクリングなのだ。

ー中略(峠に関する本の紹介)ー

峠の表裏について 峠は、二つの地域の堺をなして両側の中立点のように思われるが、実は必ず「表」と「裏」という向きがある。このことを最初に言い出したのは、先にも書いたように柳田國男である。 峠の表裏とは、その峠がどちらの側から開かれたかということである。これは、その峠路の道のつき方に表れる。地理のわからないところで、人が山越えをすることを考えよう。上りは、道に迷わないように視界が開ける高さに至までは川筋を辿り、最後に急坂を上る。対して下りは、麓の平地に目標をつけて、それを見失ったり回り道をしないように尾根筋近くを行く。峠の開かれ方もこの理屈と同じことで、表側は登りに開かれたので、道は谷筋ー急坂ー峠となり、裏側は降りに開かれたので、道は峠ー尾根筋ー急坂となる傾向がある。但し、この理屈は、古い道がつけかえられずに残っていないと通用しない。

ー中略ー

ところで、峠の名前に注目して、その裏表を考えることもできる。谷、沢、川のついた峠は、名前のついた谷筋を辿って至る峠ということでそちら側が表ということになる。また麓の集落の名のついた峠は多い。これはその集落にいくために越えなければならない峠ということで、その集落と反対側の地域中心の呼び方であり、その地域の側が表といえる。

ー中略ー

以上で私の文章は終わりです。これを読んで皆さんに峠について少しでも興味を持ってもらえたら幸いです。暇があったら紹介した本のどれか読んでみて下さい。

一九八六年一二月十日 記


P260 Wirow cycling (北村宇一郎氏)

サイクリングには様々な楽しみ方がある。そして、それは人それぞれでかなり異なるものである。僕は、いったいサイクリングをどのようにとらえているのか、サイクリングに何を求めているのかを、自分なりに考えてみた。 僕のサイクリングに対する考え方は、大きく3つに分けられる。まず1つには サイクリングはスポーツの1つであると考えている。「より速く、より遠く、より高く」というのが、僕のサイクリングの基本である。

ー中略ー

もっと簡単に言うなら、自転車に乗ってから自転車を降りるまでは、とにかく全力でペダルを踏むのである。僕がツアー中に出しているスピードは、その日の終わりやツアーの最終日まで、僕が倒れることなく出しうる最高速度であると言える。 そういうサイクリングを目指しているために、僕のサイクリングを極めて特徴づける事柄が生じる。

ー中略ー

必要最低限の荷物をフロントバックに強引につめこんで僕は旅に出るのである。さて、シュラフ、テント、マット、ガチャetcを持っていかない場合、必然的にユースホステルor民宿に泊まることになる。確かにキャンプに比べれば、金がかかるかもしれない。しかし、こういった所に泊まるのも僕にとっては当然の事である。なぜなら走り終ってから飯をつくり、テントを張るといった余分な体力があるなら、僕はそれをただ「走る」ということに使うからである。自転車から降りれば、飯を食べて、風呂に入って、次の日のために完全休養するのである。 また、僕のサイクリングを特徴づけているもう1つには、地道を走らないという事である。地道を走るときのdemeritとしては、自転車が傷つく、タイヤがパンクしやすくなる。走りながら景色が見られない、転びやすく危険であるという面があるがそんなことはあまり問題でない。何よりも荷物を積んで走る時と同様に、地道を走っても前に進まないという点で、僕のサイクリングの範疇に入らないのである。このように書いてくると、僕のことを視野が狭いとか、サイクリングの可能性をつぶしているとか言う人がいるかもしれない。しかし、そのような意見はnonsenseである。なぜなら、サイクリングはそれをする人に合ったstyleが1番よいのであり、もし可能性があったところで何の意味もなさないからである。可能性というものは、その可能性を使いたい人が使いたい時に使えばよいのである。だいたいサイクリング自体に間違った走り方など存在しない。それは純粋に各自の好みの問題なのである。だから人は、他の人の走り方をどう言うこともない、。ただ、自分ならそういう走り方はしないと思うだけである。 次に僕はサイクリングを思い出を作る手段としてとらえている。僕は生きている間にできるだけ多くの思い出を作るというのを1つの目標にしている。 サイクリングによって、普段の何の変哲もない生活にはない、輝く時、心に刻みつけられる時を手に入れたいのである。サイクリングをしている時は、どんな小さな出来事も、とてもdoramaticにstraightに心の中に入ってくる。また、たった1人僕という人間の力で、こんなに遠くまでこんなに高くまで来られたという何とも言えない充実感を味わうこともできるのである。


P287 酒について(高森 博之氏)

お酒のお話 私が酒を飲むようになったのは大学に入ってからである。それまでは全く飲まなかった。 ー中略ー まあ、酒を初めて飲んで2年という短い年月ではあるが私の得た酒に関する教訓をい言うと、もういらんと言っている人に酒をすすめない。そしてとにかく酒は自分の量をわきまえて飲むことです。世の中にはボトル1本あけて平気な人もいればビール一口でダウンって人もいるんだから。 でも、こんな教訓誰でも知ってるんですよね。知っていながらつぶし、つぶされてしまうんですよ。全く・・・まあいいや。 これからの人生、つらい酒を飲まなければならない事もあるだろうけど、せめてサイクリング部の仲間とは楽しい酒を飲みたいね。


P297 「サイクリング」と「情熱」と

(編集注タイトルは電子化の際の打ち込みミス??下の記事含め要確認)

峠に関しての情報っていうのは、ないようで結構豊富で

ー中略ー

峠についての情報はなくてもいいような気がするんです。他人の話っていうのはあてにならずあんまり詳しい事は聞かずにとにかくまず挑戦する事が大事だと思うんです。

ー中略ー

峠を求めて走る、走り屋さんにも2通りあるようです。 「峠に用のある人」(標高、景色、征服感を求める) "求めるもの"が主に峠 上にあるため、 峠越えに対する目的は越える(峠上に立つ)ことで、峠の手前1mmまで全て「アプローチ」ということになる。途中の登りは全てしんどいもので、その「しんどさ」峠に着いた時の感動の大小を決める要因でしかない。「楽しみ」は峠に着いた時に始まるのである。路面は舗装、地道を問わず、峠の好き嫌いは「求めるもの」を満たしてくれるかどうかによるが、特に強くはない。 「峠道に用のある人」(走りを楽しむ事・走りを包む雰囲気) "求めるもの"が主に峠道にあるため、登り始めて少しすると、だいたいその峠の評価は決まり、気にいらない道の場合は「つまらん!」となり、登りのしんどさは単にしんどいだけ、峠に着いた時には「やれやれ終わったか」。一方、道が気にいった時は楽しみながら登りしんどいとは感じない。峠に着いてしまった時は「終わってしまったか・・・」。いずれにしても「楽しみ」は峠に着いた時には終わっているのである。景色等は「おまけ」路面は雰囲気という点からも地道を好み峠の好き嫌いは激しい。

ー中略ー

ところで、峠好きになる必要があるのかどうかということですが、まあ峠越えなんかやらなくても、サイクリングはできるのでしょうが、国土の2/3が山でできている日本では、峠越えをしないと走る所は北海道だけになります。(北海道でも標高差700m~1000mの峠なら山ほどある。)ルンルンサイクリングを夢見て入部したものの、現実を知って愕然とした時、ポイとサイクリングを捨ててしまうのは、あまりにも悲しいのではないでしょうか。まあここでどんだけ力を入れて「峠越えはすばらしい」と言ってみても、理屈で分かるものではないでしょうけど、ただ自分で「やろう」って思って入ったクラブなのでしょうから、「走ること」に情熱を持って下さい。峠越えが嫌いなら、舗装路をぶっとばすのもいいわけですし、赤線つなぎに情熱を燃やすのも結構、何が何だかわからず、峠の数を増やすのもまたサイクリングです。 最後に峠越えの途中でしんどくてどうしようもなくなった時、頭の中で思いだす言葉を後輩の皆さんに贈って終わりにします。

「どんなにつらい峠も、ペダルを踏んでいる限り、いつかは越えられる。」


P320 『サイクリング』と『情熱』と(外山氏)

 

月4月に新しい部員がたくさん入って来るわけですが、入部以前にサイクリングをやっていたものは、ほぼおらず、少なくとも峠越えのサイクリングをやっていた者は皆無といっても良いでしょう。新入部員のほぼ全員が頭の中に持っているイメージというのは、「広い平野の舗装路を陽光降り注ぐ中、歌声も高らかにルンルンサイクリング・・・」ってなもんで、目指すは当然、北海道なわけです。だから部員勧誘の時も、「3週間、3万で北海道」という嘘八百のキャッチフレーズ(決して不可能ではないが)を使うわけですが、現実には「狭い地道のうねうね道を、どしゃ降りの中、行きも絶え絶え地獄のサイクリング」という方が、よっぽど正確なわけなんです。

・・・中略・・・

筆者は今では「地道に非ずんば道に非ず」などという寝言をほざいていますが、1回の夏ツアーで八幡平を登った時は(今だから書けるが・・)先輩が先に行ってしまったのをいいことに「こんな所走れるか、バーロー」といって自転車を放り出し路肩に寝転んでいた(なんちゅう1回生や)事もあります。

入部した時から、峠越えの好きだったひとなんかこれこそ100%間違いなくいません。他の人に聞いて回ってたわけではありませんが、だいたい2回生の夏〜秋にかけて走る事が面白くなってくるのではないかと思いますが、これは走った量(走行距離+登った距離?)によります。

ー中略ー

つきつめると、サイクリングに必要なのは、 「場数と度胸、そして内からこみ上げてくる情熱」 だけと言っても良いでしょう。(もちろん自転車は必要ですが)サイクリングに対する情熱を大切にして下さい。


P361 「芸」(不滅のポン吉さん)

芸は必要だ。ひとつもっていればそれでいい。できれば、オリジナルの芸があれば、強いものだ。 阪大にはすごい奴がいる。人は彼を「スペルマン」と呼んでいる。たいていのシモネタは彼に聞けば手取り足取り教えてくれる。

ところで、さわやかな芸にはどんなのがあるのだろう?これは難しい。わたしもそんなに知らないがキャンディバカボンとかドングリコロコロ、サリーちゃんがどこのラリーに行っても顔を出すようだ。さわやかというよりも、肉体労働という感じがしないでもない。歌謡曲にフリをつけて踊るというワザもあるが、これもインパクトを与えるには少しパワーがたりない。さわやかな芸という者はやっぱり難しい。

ではなぜシモネタではダメなのか?ダメではない。男子班では、何でもとおしである。混合班ではどうかということなのだ。私は考えた。シモネタの嫌いな女の子に言いたい。私たちだって好きでやっているんじゃあない。歌える歌がないんだ。さわやかな芸はさっきあいつがやったから、俺は他に知らないんだ。シモネタしかもう残ってないんだ。この気持ちわかって欲しい。俺だって、つらい。やりたくない。でもここで拒否したらその場をつなげないじゃないか。

・・・だから、せめて顔だけでも、そんないやそうにせずもうすこしのってちょうだい。ポン吉からのお願いでした。