1991

2010m信州の旅(柚木氏)
「自転車で行ける、標高2010mを越える峠、ピーク集」である。ただし、「自転車で行ける≠自転車に乗っていける」である。新中尾峠の自転車走行記録なんてそんなに見られるもんじゃありませんよ、あなた。

No Pain , No Gain (黒川氏)  

大学は、学部生時代と休学期、そして院生時代に分けられる。やはり、学部生時代はクラブとの関わりが大きい。理事と言う役職は自分に適していた。ただ最初からそうだったわけではなかった。いや、本当に"理事"という役を考えれば、"適して"いるとは言えないかもしれない。

特に役職が様々ある中で、理事が特別どうこういうことはない。同じ、1つの役である。それ以上に1人のクラブ員が受け持つものである。いくら理事会に出て、他大学のことを知っていて、名声をあげていても、阪大サイクリング部が故郷であることを忘れてはいけない。つまり、自分の行動を考えると、クラブ外の行事には、よく顔は出していたが、クラブ内にはそれほど貢献したものはなかった。クラブへの貢献と言うと何やら堅苦しいけど、つまりは、クラブでよく走っているか、よくペダルを踏んでいるかということである。自分が走り、みんなが走り、それがクラブの基本であって、走らないサイクリング部なんて意味がない。

あたり前のことを書いたけれど、部内のことを積極的に取り組んで、そして初めて口出しできるわけで、たまにクラブに顔出してブーブー文句を言ったところで、蚊が飛んでいるように不快に感じるだけだ。。こんな昔の自分に、オーバーラップするという読者は(あまりいないことを期待するが)今もう一度"サイクリング"をしてほしい。ギャーギャーと細かい話をする奴ほど、部のポタリングとかランニングをしていなかったりすると、その場に居合わせたものは、時間を浪費することになるわけだ。

休学したのは旅に出たいと思ったからである。詳しいことは昨年の銀輪('90)を参考にしていただきたい。この度の途中、当初の予定では砂漠の中を走る計画であったが、結局やめた。NZに行くにはどうしても時間がたらないと思ったからである。どうしてNZに行きたかったのか?砂漠と比べて、はるかに楽で安全、様々な景色が見れる・・・今から考えると、目の前に大きな壁を感じて、そこから逃げたようなものである。砂漠の危険さは確かに大きい。しかし、それを承知で計画していたのに、楽なほうへと逃げた。日本でもできる、同じような旅しかできなかった。苦しいことを承知で砂漠に行ってたら、人生観が大きく変わっていたかもしれない。

院に戻り、少し思うところがあって、クラブ行事には、よく顔を出そうと考えた。M1のときは研究もクラブも充実していたと思う。それがM2になって就職、研究、クラブ、イベントetc、すべてについて中途半端になってしまった。就職では初めは放送局のディレクターにしようと考えていたが、一転して大阪ガス。クラブでは就職と重なるなどで合宿を途中で抜けると言うとんでもないことをし、秋合宿etcは研究のしわよせでキャンセル、イベントも計画していたが、計画倒れになるなどして、不完全燃焼であった。

恥をさらしたようだが、自分への戒めのつもりであるので、がまんして読んで頂きたい。以上書いたことに共通するのが、中途半端ということである。いろんなことに手を出してきたが浅くしか踏みこんでいないので、これでは成長しない。そう考えてNo pain,No gain,--自分自身の苦しみは自分自身の成長につながる。決して強制される苦しみではない。自分から能動的にチャレンジする。少しぐらいの苦しみがあるのは当然であるが、それを恐れてはいけない。(ただ無謀と冒険は紙一重であるから、万全の注意をはかる必要がある) 経験に基づいた考えの上での議論は意味があるが机上の空論ほど空虚なものはない。

最後に少し。  部内(特に部会で)の、ホンネ、タテマエが気にかかる。何のことかというと、一部の人間が、合宿における不公平をごちゃごちゃ言ってたことである。あの班はアーだコーだ言って言いすてるだけ。自分で変えてやろうという考えはこれっぽっちもあるわけないのに。無責任なことは言うな。 同じクラブにいる人だから、ときには、自分を殺して、人のために働くのも当然じゃないのか?  文句になってきたので、とりあえずこのくらいにしておこう。クラブ行事に出たのは夏合宿の半分だけなので今年の銀輪は随想になってしまった。卒業の頃に学生最後の思い出に、もう一度自転車旅行をしてみたい。もちろん社会人になってもサイクリングは続けます。 以上