1993

 

P111「鳴き草」を知らない人たちへ(あだち ひでき氏)

その草を踏むと一瞬遅れてちゃぽちゃぽと音がする。亀岡の鳴き草はいつまでその音色を保てるのだろうか。サイクリングと鳴き草、そこには自然を愛する心で結ばれた深いかかわりがあるのではなかろうか。

去年夏、実家の東隣りを走る水路で、おそらく最後の一匹であろう蛍がその瞬きを終えた。古くからあたり一帯を潤し、多様な生物を育み、 安達家の食卓を豊かにしてきたその水路は、もはや瀕死の重病人である。コンクリートで固められ、ヘドロとごみにまみれるその惨状を見る時、僕は嘆かずにはおられない。我が民族は、何世紀もかけて磨き上げた類まれなその感性を、たった数十年という時間にあっさり剥ぎ取られて、なぜ開き直っていられるのだろうか?

たとえば、秋合宿で素晴らしい景観を披露してくれた霧降。その国立公園にゴルフ場建設の計画があった(現在の状況は知らない)。そのときこんな理由がまかり通っていたのだ。「予定地には特別貴種な種はなく、ここの種は周辺地帯にも同様に存在する。」貴種とは数が少なくなった種の事。つまり数が少なくなった生き物はまだいないから、数を少なくしても構わんというのか?またゴルフ場を作っても周辺地帯に何の影響も与えないのか? 例えば、コンクリート塊と化しつつある淡路島。平成2年、兵庫知事は言う。「当県は独自の条例"淡路地帯の良好な地域環境の形成に関する条件"により、"開発するところ""保全するところ"を区別し、自然環境保全とリゾート開発の調和に心がけている。」一部を開発すればすべてが壊れる生態系の概念を、このおっさんは知らないのか。

だいたい"開発"と"保全" を区別する事がおかしい。これなら、リゾート開発とは環境破壊の事のようだ。リゾート法(総合保養地域整備法)の目的は、自然の中で国民の余暇が充実させられる事と明記してある。しかし実際は、整備という名の破壊によって大企業が金儲けするのを、自然保護運動から守っている。彼の言葉は、それを隠そうともしていない。日本の地方自治体の長の言葉は、こう解釈できる。「そら破壊するとこは破壊するけど、全部が全部やないしええやん。」

例えば、1990年4月17日のニューヨークタイムズ。この日大きく喝采された見出しには石垣島住民の悲願が込められていた。「Coral Reefs (珊瑚礁) Are Like Underwater Forests. Help Save This One From Desutruction.」いくら呼びかけても反応しない日本人に愛想を尽かし、彼らはアメリカ国民の力を借りる事にした。この記事は多くの運動を呼び起こし、新石垣空港建設はひとまず中止となった。

ある本を読んでいてショッキングな言葉に出会った。「なぜ、巨額の費用と多大な破壊を伴ってスーパー林道を作るのか。もはや東北にさえ、切ってよいブナの木など一本もない。」スーパー林道とは自動車でも走れる、いわば大規模な林道の事。そして、自然を大切にする心を持っていなくても、排気ガスさえ出せば、簡単に森の中へ突っ込んでいける道の事である。 僕たちはおそらく全員、日本の美しい自然に出会うために(他の理由こそあれ)自分の足で各地をまわっているはずだ。観光バスで山頂までいって、大規模旅館の露天風呂に使って、「やっぱり自然は素晴らしい」などという事の愚かしさをよく知っているつもりだ。しかし旅先で、あるいは大学生活においても、ちょっとした快適さ、面倒くささのために何かしでかしていないだろうか。熱帯林を食い荒らしたあげくゴミの出し過ぎに苦しむ国をしっかり認識できているだろうか。そして開発途上国の次は自国の森を、スキーやゴルフをするために切り開くこの国に目をつむっていないだろうか。 これは、尾瀬の長蔵小屋の三代目主人、故平野長英の言葉である。「彼らは、遊園地やゲームセンターに飽きたので遊び場所を山の中へ移した。」コーナリングのスリルがジェットコースターの代わり、きれいな風景は雰囲気ある建物の代わり、そして足元がごみ箱の代わり。不便な点もやがて地方自治体が、整備し設置し開発してくれる。

都会育ちの皆さんには分かるだろうか。両岸に草花がこんもりと茂り、藻がびっしりと生えたその上を行くメダカの大群、そしてドジョウ、ザリガニ、ナマズ、ホタル、トンボ ......。そんな思い出の小川がある日、見る影もなく削り取られ、コンクリートで固められ、とどめにふたをされる時の衝撃を。小川はただの排水溝ではない。住み慣れた尾瀬にいやおうなく道路がのびる。よく知っている木が一部で伐られ、小さな生態系はショベルカーひとすくいの土砂で一瞬にして埋もれる。日本に自然保護の概念がまったくなかった時代から運動を起こし、長蔵小屋まで車道が延びていれば遭難しなかったであろう長英は、安らかに眠れているだろうか?

何世紀もかけて磨き上げられた、世界に類見ぬ日本人の精神文化。それは、無を虚とせぬ心、ありふれた自然にも感動できる文化だったはず。空間を意味づけ、静寂に聞きいる。古池に蛙が跳び込む水の音さえに感じ込む。それらを忘れてツアーにで、自然を慈しむだのといっても、しょせん「自然へのご招待。快適な高級観光バスで行く○○ 四日間の旅」と大して変わらないのではないか?

悲しい運命を持つガン細胞。自らの生命活動が母体の死、ひいては自分の死を早める。地球にとって人間がそんな存在ではないはずだし、それを確認する、あまりに壮大すぎる"実験"を自らの星で行う事がどれだけ危険なのか想像する事など訳ない。銀河の渦の中心への落下途中、ほぼゼロに近い確率を克服して発生した"宇宙船地球号"、そこに何億年もの時をかけ蓄えられた太陽エネルギー(石油や鉱物はもちろん、複雑な生物の体系も指す)を、一時の快適をも富める人間が、100年や200年で使い古そうとしている事実に居直ってよいのだろうか? 居直りーーーーこれが一番の問題(特に若者の)だと思う。平和に慣れ過ぎてしまった僕らは、政治社会や問題に対して無関心になりがちだ。

だからきっと、「安達、何をまじめくさったことかいとんねん」とか「そこまでして自然守ったり、動物保護したりする必要性ある?」とか「廃材利用の割箸が批判されるのはおかしい」とか「今が(または生きているうちが)自分に取って快適やったらいい」とか「今時<わび・さび>みたいなこと言うておまえは年寄りか」とか思われるかもしれないが、そんな点からの議論は避けたい。また僕のこと故どこか理屈の通っていないことをほざいているかもしれないし、僕の意見を論破する人だっていくらでもいるだろうが、まぁ、どばぁーっと述べただけだから細かいところをつっ込まないで!

今年夏、大発見をした。蛍の消えたあの小川に数匹のザリガニが生き延びていたのだ。ヘドロと泡とボウフラに紛れて....。コンクリート工事から10年以上、彼らにとっては何世代にも渡る長い歴史を、最悪の環境の下、確実に絶滅へと続く空しい歩みでたどってきていたのだ。感動と憐れみと人間の所業に対する責任や罪悪感が、僕に幼稚な事を思い起こさせた。「少し下流の未工事の場所へ移してやろう!」 僕はザリガニたちをバケツに入れ、小川に沿って下流へ歩いた。足元の草影から、人間を察知した虫たちが驚いて逃げ出し、蛙たちは慌てて小川に飛び込む。そう、一歩踏み出す毎に、ちゃぽちゃぽ...と。 鳴き草ーーー彼らの"泣き"声は、現代の日本人にどこまで通じているのだろうか?

 


P417 あれこれ(小坂 和寛氏)

「旅」といったらやはり「ソロ」である。クラブで走った4年間「このツアーが一番良かった」などと一つのツアーを挙げるのは無理な話で、それぞれ素晴らしかった。でも「拓郎」の歌を聞いている今、やはり思い出すのは、1回と2回の時の「北海道ソロツアー」である。

ー中略ー

もし芦屋にいて、普通に学校に通い、クラブのラリーで友達をつくるだけなら、こんな奴らの価値観に出会えなかったんだろう。海外行くのもいいけど、同じ国にこれだけ境遇の違う人間がいるって事に気づくのも必要だと思う。

ー突然 T.Tについて 後輩のみんな、もっとT.Tを頑張ってくれ。本音を言ってしまうと、これは合宿と同じクラブの基本行事だから手を抜いたらダメなんだよ。対外行事うんぬんの前にこっち方面をしっかりするのも大事なんだ。

ー酒のことについて 俺が4回生としてもっとも後悔しているのが、秋合宿の前の夜行での酒を禁止にできなかったことである。俺らの時は安全対策とかに力を入れていたクセに、実はもっとも危険な行為を容認していたのである。思うに今の状態じゃあ、昔のラリーと一緒である。京大ラリーを契機にせっかく改めた考えを持ったはずなのに、どうしてクラブではあんな事がとおるのか?だいたい合宿を何だと思ってるのか?上回生がしんどいからといって「元気な奴はつぶしておく」などというのは、冗談でも許せない。今後こんなことを言う奴がいたら俺はマジで怒るつもりだ。 今後、部長と副部長(この号では岩本氏と堀田氏)はこのことを真剣に考えてほしい。どれだけ危ないかはよく分かるはずだ。

〜俺は思う、これからはクラブ行事、特に合宿前夜の酒は禁止するか絶対につぶさないようにCLが管理するようにすればいい。それに逆らう奴は、たとえ上回でも不参加措置にすればいいのだ。〜