「阪大春秋」(1994年発刊)より

サイクリング部

銀輪とともに世界を翔る

Last modified: Thu Aug 5 14:47:19 JST 1999
「阪大春秋」顛末記 (升谷 保博, 1994)

創部の頃の思い出

幸田 盛堂(工・46年卒)

昭和四一年六月、工学部精密工学科一回生の有志により阪大サイクリング部 (阪大CC)が発足し、翌四二年にサイクリング部に改称し、明道館Box No.2 を強引に獲得して以来四半世紀、今や阪大の中で有数のクラブに成長したこと は、創設者の一人として、初代部長として、またOB会会長として無上の喜び である。

部室がなく運動場片隅のカマボコ更衣室を無断借用、中国自動車道ができる前 の石橋キャンパス外周の昼のトレーニングなど、ないないづくしの中で精一杯、 それも若者の特権である怖いもの知らずのバイタリティでもって部創りに励ん だことが懐かしく思い出される。

毎年、女子を含めて二十名近くの新入部員が参画し、それも総合大学ならでは の多彩な人材が各学部から集まり、他のクラブにはない一種独特の空気が部室 に満ち溢れていた。合宿、公開サイクリング、西サ連(西日本大学サイクリン グ連盟)、合ハイ、ヒルクライム、ダンパ…各部員の自主参加尊重の精神の下 で、全てに対し全力投球で次々と実行に移された。

大学紛争の影響で、一時活動が低迷した時期もあったが、時代に即した学生の 意識の変化は止むをえないとして、阪大CCの自主参加尊重の精神が現在も綿々 と脈づいていることに、OBの一人として誇りに思っている。

創部二十周年を記念して昭和六一年にOB会が発足し、OB会員数も三五〇名 を越え、各企業・研究機関にて大いに活躍されている。こうしたバイタリティ の根源には阪大CCで培った精神力、峠を登る時の貪欲なまでの征服欲と相共 通したものが息づいているように思える。

二一世紀に向けて阪大CCのOBと家族の方々、そして現役部員の御健康とま すますの御活躍を期待している。

昭和43年11月,西サ連加盟の際の公式写真 (イ号館をバックに)


昭和四〇年代後半

妙中 義之(医・51年卒)

昭和四六年から五〇年にかけての年代は、振返ってみると、部発足以来でき上 がってきた土台に基づいて、部が外部社会に乗り出して行くために人格を持っ た時期であったのではなかろうか。いわば、変革と充実によって部の法人化が 行なわれ、以後の発展のために基盤ができ上がった時期であったと言えよう。 日常の部活動では昼休みのランニングを中心とした練習が、また年間スケジュー ルとしての公開サイクリングから夏、秋、翌年の春の合宿およびツアーという 基本的な行事が確立されており、それらはほとんど支障なく活発に実行されて いた。内容的には、自転車をかついでの山岳サイクリングの走りと、長期ツアー がこの時期に開始された。

変革の中で最も大きかったのは、それまで文化会に属していた我部が体育会に 加入したことであろう。部活動の基本的な理念が、サイクリングを通じて自然 と親しむ同好の集まりとの考えと、サイクリング自体は体育活動であるとの考 えがほぼ相半ばし、この問題を具体的に考え始めてから約一年に渡って議論を 繰り返した。結局、理念の違いに基づいた結論は得られず、体育会に属した方 が対外的な立場や得られる援助から考えて、将来の部活動にとって有利であろ うとの判断から体育会入りが僅差で決定された。現在、発展を遂げた部の現状 を見るに当って、この判断は間違っていなかったと確信している。

対外的な活動としては、昭和四八年に西日本大学サイクリング連盟の第十回ラ リーを千刈で主催したことが第一に挙げられる。これは部の力が充分ついてき た事の証明でもあった。また、この時期に大量に入部し部活動の中核を担った 昭和四七年入学者までの部員が、多田氏(昭和四四年入学)を中心として勝ち 取った正田杯駅伝のぶっちぎり初優勝も部の力の充実の結果であったともいえ る。

昭和四六年に開始したサイクルサッカー部門の活動も記しておく必要があろう。 この活動が前述した体育会加入のための実績作りに役立った。戦績は素晴らし く、昭和四八、四九年の関西選手権の連覇、昭和四八年の全日本リーグ、四九 年の全日本選手権の優勝など、向かうところ敵無しであった。昭和五〇年の世 界選手権に参加した妙中(義)に対して、この年から制定された体育会の特別 賞である第一回釜洞賞が贈られたのもサイクルサッカー部門を含めた部全体の 活動が体育会で評価された結果であった。

部の装備の充実のための資金稼ぎのダンスパーティーや、十三の養老の滝で月 例のごとく行なったコンパでの春歌合戦や、会後に梅田歩道橋上で寮歌を蛮声 を張り上げて歌ったことも、忘れられない部活動であった。

昭和46年7月,夏一次合宿 (上賀茂神社)

昭和47年7月,丹後ツアー (城崎)

昭和48年8月,第10回西サ連ラリー主管 (千刈)

昭和49年5月,公開サイクリング (多田院)


昭和五〇年代前半

塚本 尚司(基・55年卒)

昭和五〇年代前半は、大学紛争の影響も消え去り、また、新入部員も昭和 三〇年代生まれとなり、創部当時の諸先輩方から見れば、比較的恵まれた環境 でサイクリング活動を行うことができた時代であった。毎年、コンスタントに 新入部員は二十名前後加えることができ、安定成長できた頃であった。この中 から、二三記憶に残っていることを記す。

(一)第十四回西サ連ラリー主管(昭和五二年八月)
瀬川実行委員長以下スタッフ全員が準備を整え、千刈キャンプ場で、一五〇名 近くのゲストを迎え、大会初日の開会式まで無事終了したところ、接近中の台 風の影響で夕方から雨。大会二日目も天候の回復が望めず雨模様。予定どおり ポタリングを決行するかどうか、大激論がなされた末、大雨の恐れありという ことで、結局大会二日目のポタリングは、中止となった。宿泊地の都合で千刈 から約二キロ離れた三田野外活動センターを利用させてもらうことになり、雨 の中、昼前に全員自転車で移動。ここは、小学校の跡地で、どのグループもト ランプに明け暮れたようだ。幸い、大会三日目は無事天候も回復し、当初二泊 だったポタリングを一泊に変更して出発。これ以外は、大きなトラブルもなく、 好評の内に四日間の日程を終えることができた。

(二)海外ツアーの隆盛
昭和五二年に大橋氏が、単独でヨーロッパツアーに出かけて以降、毎年のよう に海外渡航者が続出した。特に、昭和五五年に亀川氏が約六ヶ月間、単独でイ ンドに行き、体育会釜洞賞を受賞した。

(三)輪球(サイクルサッカー)の活躍
昭和五一年の妙中(義)氏の体育会釜洞賞受賞に引き続き、昭和五五年には、 妙中・金光氏が釜洞賞、翌年には、両氏が体育会会長賞に輝いた。マイナーな スポーツであった輪球が体育会でも認知してもらえるようなった。 また、昭 和五三年には、輪球がNHKで放映され、出演した吉田、島崎両君が、サイン の練習をしていたという噂もあった。

昭和52年,輪球世界選手権遠征中の現地の新聞記事

昭和52年8月,第14回西サ連ラリー主管

昭和55年6月,第17回西サ連リーダーゼミナール主管


昭和五〇年代後半

冨園 慎一郎(理・61年卒)

昭和五六年から六〇年にかけて、ツアー班の年中行事は、骨組みが確定した中 で内容の充実を計る方向にあった。一年間の公式スケジュールは概ね定まって おり、重装備のキャンピングで走る夏合宿・春合宿、軽装備で信州を走る秋合 宿、阪大での夏二次合宿、週末の一泊行事が五月と六月に二回、五月山と六甲 山のタイムトライアルが年に二回ずつ、あと自由参加の北摂ポタリングが随時 といったところ。特に五七年から五八年にかけて、装備の質的向上が計られて おり、また部員数も増加したことから、同じ枠組の中とは言え、合宿の内容に ついては、班のコースリーダー次第で、時に奇抜なあるいは無謀な摸索が行な われた。

とはいうものの、妙な話ではあるが、部員がより多くの力を注いだのは、これ らの公式行事ではなく、個人の裁量に任せられていた休暇中のツアーや、ゲリ ラ的な日帰り行事だった。サイクリング部自体が、一定の枠内で行動したがら ない人間の集まりだったのだろう。「北摂の山の上でスキヤキを食べる。」そ れだけのために、鍋とホエブスで武装した自転車が多田のダイエー前に結集す る。こういう種類のエネルギーは社会ではまずお目にかかれない。この力を世 間が理解しやすい方向に展開したケースが、五七年に体育会の釜洞賞を受賞し た、亀川さんのインドツアーと言えよう。このように外部から評価される機会 はむしろ稀であったが、大学の長い休みを自転車ツアーで走り終えた時には誰 しも、表彰台に立っている感慨を覚えたはずだ。

一方で、部の集団としての力を発揮した年があった。五九年夏に、西日本の各 大学との交流の場である西サ連ラリーを阪大が主管している。準備にはほぼ一 年をかけ、会場となった琵琶湖に、下見のため幾度となく足を運んだことも懐 かしい。

輪球班にとっては、逆風の強い時期だった。五六年の「碧青」では前年の全日 本学生選手権で妙中さん金光さんが優勝した記事が華々しく目を引いたものだ が、翌五七年春に旧体育館が焼失してから六一年春に新体育館コートができる まで、専用の練習場所を持たない状態が続いた。この環境に負けず、練習を続 けた世代が今日の輪球班の基礎を築いたことは確かである。

昭和55〜56年,亀川氏インドツアー

昭和58年11月,六甲山タイムトライアル (六甲山最高峰)

昭和59年7月,第21回西サ連ラリー主管 (滋賀県高月)


昭和六〇年代

大場 義洋(基・H1年卒)

私たちが入部した昭和六〇年頃は、クラブの勢力がとても盛んで、その証拠に 現役部員はもちろんのこと、大勢の学内OBやときには社会人OBも合宿やポ タリング(日帰りのサイクリング)などのクラブの行事に参加していた。

この時期の大きな特徴として、とにかく走りが優先しており、合宿では日が暮 れてからも林道に入ったり、ポタリングでは箕面の獣道をさんざんさまよった 挙げ句、山中に自転車を放置して帰ったり(翌日取りに行った)など、安全意 識に欠けていたことは否めないが、あの頃先輩方や同輩達が持っていたサイク リングに対するエネルギーや情熱は計り知れないものであったように思う。部 内で毎年発行している「銀輪」もこの年は阪大サイクリング部史上最高のペー ジ数を記録している。

昭和六二年には有志により国道一号線(大阪東京間五五三km)を自転車で走り 続けるという企画が行われ、タイムは三十数時間、全員完走という結果を残し た。今思えば、クラブとしてのスタイルが固まり、成熟期に入った我が部にお いて、この出来事は注目すべきであろう。

昭和六三年夏には西日本大学サイクリング連盟のラリー(ラ・タンバラリー) を丹波篠山町において主管し、各大学の大勢の参加の中、大成功を納めた。

また、平成元年には、それまで二位、三位に甘んじていた近畿大学サイクリン グ連盟主催のRTT(ランドナー・タイムトライアル)において団体戦、個人戦、 新人戦のすべてで一位を獲得し、見事な完全優勝を成し遂げた。

輪球班は地道に練習を続け、毎年着実に力を付けていった結果、昭和六三年に 二部優勝を果たした。同時に、この年には竹下・藤田組が新人戦で準優勝した。

また、これまではツアー班と輪球班の二班から構成されていたサイクリング部 であったが、平成元年には小野(昭和六三年入学)らの手によって、新しくレー ス班が発足した。レース班では発足以降、ロードレースとトライアスロンを主 体にした活動を行っている。

昭和60年5月,新歓ラン

昭和63年7月,第25回西サ連ラリー主管 (篠山)

平成元年,近サ連RTT優勝を記念して有志で作ったTシャツのデザイン


現在のサイクリング部

野村 紀子(基・二回生)

平成四年の輪球班の活躍には、目を見張るものがある。関西学生リーグでは二 位という好成績をおさめ、それにともない部員も増加している。最近新たにサ イクルフィギュアなどもはじめ、未公認ではあるが活動をしている。 

レーサー班は、創部してまだ四年目ということもあり、好成績を残すところま でには至っていないが、主要レースの入賞をめざして、日夜練習に励んでいる。

ツアー班の一年間のクラブ行事は、週一回のトレーニングランと部会、年二回 の五月山T.T.と六甲T.T.、年五回の合宿(春合宿、新歓ラン、初夏ラン、夏合 宿、秋合宿)で昔から変わっていない。

平成三年には創部二五周年の記念行事として北海道道東で、サイクルO.L.を行っ た。これは四日間にわたる大規模なもので、後に体育会釜洞賞を受賞した。

MTBブームのおかげか、平成四年度は三十名近くもの新入部員を迎え、現役 部員は総勢六十名となった。女子部員も新しく五名も入部し、現在合計で七名 となった。

平成四年の夏には、西日本大学サイクリング連盟のラリーを主管した。数年 前の事故のため、一時中断していた後の再開第一回目のラリーで、夏合宿の後、 五日間篠山で行われた。「ラリー」というものを経験したことのない私達にとっ ては、ラリー開催にこぎつけるまで大変な苦労があったが、参加者から好評を 得るなどして、無事成功をおさめた。

平成4年,西サ連ラリー主管 (篠山)


masutani@me.es.osaka-u.ac.jp